安土桃山時代

天正壬午の乱
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天正壬午の乱 天正壬午の乱
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1582年(天正10年)2~3月に「織田信長」が行った「甲州征伐」(こうしゅうせいばつ:別称「武田征伐」)によって「武田氏」が滅亡しましたが、その3ヵ月後には「明智光秀」が「本能寺の変」において、主君・織田信長を討ちました。これにより、旧武田領を巡って「北条氏」(後北条氏)や「徳川家康」、「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)の間で、争乱が繰り返されるようになったのです。元号が「天正」(てんしょう)であり、干支としては「壬午」(じんご/みずのえうま)に当たる年に起こったことから、「天正壬午の乱」(てんしょうじんごのらん)と称されるこの争乱について、その背景や戦況をご説明すると共に、各武将の動向についても詳しく解説します。

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大河ドラマ どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

天正壬午の乱が起こった背景

武田氏の勢力拡大から滅亡まで

武田信玄

武田信玄

甲斐国(現在の山梨県)の戦国大名であった武田氏は、戦国時代末期に「武田信玄」(別称「武田晴信」[たけだはるのぶ])が、甲斐守護であった父「武田信虎」(たけだのぶとら)を国外へ追放すると、信濃国(現在の長野県)や上野国(現在の群馬県)西部、駿河国(現在の静岡県中部、及び北東部)、遠江国(現在の静岡県西部)、三河国(現在の愛知県東部)、美濃国(現在の岐阜県南部)の一部など、中部地方一帯にその版図(はんと)を拡大します。

しかし、武田信玄の四男「武田勝頼」(たけだかつより)が家督を相続すると、1575年(天正3年)に尾張の織田氏、及び三河の徳川氏による連合軍と武田軍の間で「長篠の戦い」(ながしののたたかい)が勃発。

武田勝頼

武田勝頼

同合戦で大敗を喫した武田氏は、その後、勢力に衰えが見え始めます。これを好機と捉えた織田信長や徳川家康、さらに相模国(現在の神奈川県)を拠点としていた北条氏 4代当主の「北条氏政」(ほうじょうじまさ)は、1582年(天正10年)2月より、武田勝頼の領国へ侵攻を開始。甲州征伐と呼ばれるこの一連の戦いは、同年3月の「天目山の戦い」(てんもくざんのたたかい)で武田勝頼が自刃する結末を迎え、武田氏は滅亡することとなったのです。

織田信長の最期と旧武田領を狙う戦国武将達

明智光秀

明智光秀

しかし、その直後の1582年(天正10年)6月2日、明智光秀による本能寺の変で織田信長が突如亡くなります。

この当時の甲斐や信濃、上野西部といった旧武田領は、甲州征伐完了からわずか3ヵ月しか経過していなかったこともあり、織田氏による支配体制が固まっていませんでした。

そのため、権力の空白状態となった旧武田領を巡り、甲州征伐で駿河を手中に収めたばかりの徳川家康や、北条氏政とその嫡男の「北条氏直」(ほうじょううじなお)、さらには武田氏が滅亡する寸前まで同盟関係にあった越後国(現在の新潟県)の上杉景勝らが争乱を開始。

さらに、武田氏の傘下にあった「真田氏」(さなだし)の国衆(くにしゅう)なども加わり、約5ヵ月にも及ぶ大規模な国盗り合戦である天正壬午の乱へと発展することとなったのです。

天正壬午の乱で各戦国武将が取った動き

天正壬午の乱は各武将の様々な思惑が交錯する中、前述した旧武田領の3ヵ国(①甲斐・②信濃・③上野)において同時期に繰り広げられました。そのため、戦況が複雑に入り組んでおり、少し分かり辛い点もある戦いです。

ここからは、天正壬午の乱の中心人物である徳川家康、北条氏政・北条氏直父子、上杉景勝、「真田昌幸」(さなだまさゆき)の、それぞれの本能寺の変後の動きを、時系列に沿って見ていきます。

徳川家康の場合

徳川家康

徳川家康

徳川家康は本能寺の変が起こる1ヵ月前、当時の織田信長が拠点としていた「安土城」(あづちじょう:滋賀県近江八幡市)を訪問。1582年(天正10年)6月1日には大坂・堺(現在の大阪府堺市)を遊覧していました。

しかし、翌2日、織田信長が本能寺の変で横死したことを知ると周囲の説得もあって、自身の居城「岡崎城」(愛知県岡崎市)まで急遽戻ることに。

わずかな兵を引き連れた徳川家康は伊賀国(現在の三重県伊賀地方)へ入り(伊賀越え)、道中襲い掛かってくる一揆勢を何とか切り抜けて、6月4日には命からがら岡崎城へ帰還。

明智光秀の討伐を目的に兵を起こすのと並行し、武田氏の滅亡後、織田領となっていた甲斐・信濃侵攻の許可を、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ/のぶお)に求めます。こうして徳川家康は、旧武田領掌握のための準備を着々と進めていったのです。

天正壬午の乱における徳川家康の動き 時系列一覧表
日付 具体的な動き
6月4日 本能寺の変後に伊賀越えを強行し、岡崎城へ戻る。
6月10日 数日間の雨により、旧武田領であった甲斐・信濃への出陣を6月14日まで延期することにした徳川家康は、甲斐一国と信濃諏訪郡を任されていた織田氏の家臣、「河尻秀隆」(かわじりひでたか)に美濃へ戻るように連絡するため、「本多信俊」(ほんだのぶとし)を使者として派遣する。
6月14日

本多信俊は、甲斐の国人衆などによる一揆が起きた場合は援軍を出すことを、河尻秀隆に伝える。しかし河尻秀隆は、本多信俊が一揆を煽動して自身を討つのではと疑い、本多信俊の就寝中に長刀で殺害する。
徳川家康は、自身の重臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)や「本多忠勝」(ほんだただかつ)などと共に岡崎城を出て、鳴海(名古屋市緑区)へ向かう。

酒井忠次

酒井忠次

本多忠勝

本多忠勝

6月15日 鳴海へ着陣した徳川家康のもとに、「山崎の戦い」により明智光秀が「豊臣秀吉」に討たれた報せが届く。
6月17日 徳川家康が酒井忠次を津島(現在の愛知県津島市)まで派遣し、明智光秀にまつわる情報を確認させる。
6月19日 豊臣秀吉より、上方を平定した旨が記載された書状が届いたため、2日後に自身の軍勢と共に浜松へ帰る。
7月2日 徳川家康が、居城の「浜松城」(浜松市中央区)より出陣する。
7月8日 駿河から大宮(現在のさいたま市大宮区)、さらには甲斐へと進軍し、翌9日に甲府へ入る。この時点で徳川家康は、信濃南部、及び甲斐3郡(①山梨・②巨摩[こま]・③八代[やつしろ])を掌握していた。
7月上旬 酒井忠次が北上するも、「高島城」(現在の長野県諏訪市)城主「諏訪頼忠」(すわただより)の調略に失敗して足止めを食うことに。
7月中旬
深志城(松本城)

深志城(松本城)

徳川方の支援を受けていた「小笠原貞慶」(おがさわらさだよし/さだのり)が、「深志城」(ふかしじょう:長野県松本市、別称[松本城])を攻撃して占領する。

7月19日頃 川中島の千曲川(ちくまがわ)で上杉軍と交戦していた北条軍が、上杉方との講和を企てる。
7月29日
大久保忠世

大久保忠世

北条・上杉が停戦に合意。その後、甲斐方面へ南下する北条軍に対抗するべく、徳川方の酒井忠次や「大久保忠世」(おおくぼただよ)らが甲斐へ。
徳川方の「奥平信昌」(おくだいらのぶまさ)らは「飯田城」(長野県飯田市)へ撤退し、防戦のために籠城した。

8月10日 徳川家康が甲府を出て「新府城」(山梨県韮崎市)に入り、本陣を構える。8,000人の兵と共に、約80日間ものあいだ北条軍と対峙した。
8月12日
鳥居元忠

鳥居元忠

徳川方の「鳥居元忠」(とりいもとただ)と、その背後から侵攻してきた北条軍の別働隊が交戦。徳川方が二手に分かれていた北条軍を攻撃し、勝利を収める(黒駒の戦い:別称[黒駒合戦])。
徳川家康は、北条方の首級500を槍に刺して物見場に並べ、北条軍へ向けたさらし首とした。
この黒駒の戦いにおける勝利により、旧武田衆であった「保科正直」(ほしなまさなお)らを味方に付ける。

9月上旬 北条方に付いていた真田昌幸に領土を安堵する条件を提示し、徳川方に寝返らせる。
10月上旬 もとは武田衆であった「依田信蕃」(よだのぶしげ)も徳川方に付き、真田昌幸らと共に「碓氷峠」(うすいとうげ)などを占領。これにより、北条軍本隊の補給線を断つ。
10月28日 北条氏直からあった和睦の申し入れに徳川家康が応じ、北条氏と徳川氏の講和が成立する。

北条氏政・北条氏直父子の場合

北条氏政

北条氏政

1582年(天正10年)6月11日、本能寺の変が起こったことを知った北条氏政は、織田氏の宿老「滝川一益」(たきがわいちます/かずます)に対して、北条氏は何の疑心も抱いていないこと、加えて織田氏に協力することを伝えました。

しかし一方で北条氏政の息子・北条氏直が、翌12日に北条一族などから軍勢を召集し、その4日後には滝川一益に向けて宣戦布告。いわゆる「神流川の戦い」(かんながわのたたかい)が勃発したのです。

武田氏の滅亡後、滝川一益は織田信長から旧武田領の信濃・佐久郡(現在の長野県佐久市)や上野を賜っており、自身の所領として統治していました。ところが織田信長と同盟を結び、甲州征伐でも織田氏に貢献していた北条氏政には、恩賞が一切与えられなかったのです。

北条氏にとって天正壬午の乱の幕開けとなった神流川の戦いは、織田氏へ募らせた不満を爆発させる形で始まったと言えます。

天正壬午の乱における北条氏政・北条氏直父子の動き
時系列一覧表
日付 具体的な動き
6月16日
滝川一益

滝川一益

北条氏が滝川一益を相手に宣戦布告する。

6月18日 先手である「北条氏邦」(ほうじょううじくに:別称[藤田氏邦])が上野へ進軍。上野と武蔵国(現在の埼玉県、東京都23区、及び神奈川県の一部)の境である金窪原(かなくぼはら:現在の埼玉県児玉郡)で、滝川軍と対峙するも敗北を喫したため、一旦は後退する。
6月19日 50,000人の兵を率いる北条氏直が、「厩橋城」(まやばしじょう:別称[前橋城])から迎撃に出た18,000人の滝川一益軍を攻撃して勝利を収め、上野を掌握する(神流川の戦い)。
7月9日 北条主力軍43,000人の先方衆として、北条氏に臣従の意を示した真田昌幸が、同軍と共に上野から出る。
7月12日 碓氷峠を越えた北条軍が、信濃方面への侵攻に着手。
7月13日 上杉景勝に仕えていた「海津城」(長野県長野市:別称[松代城])城主「春日信達」(かすがのぶたつ/のぶさと)が、北条方へ寝返る予定であったが上杉方に発覚。春日信達が処刑される。
7月14日 北条氏直軍と上杉景勝が千曲川で対峙。前述の通り、春日信達の調略に失敗していた北条氏直は、上杉軍より要請された停戦に合意する。
7月29日 北条氏直は北信濃攻略を諦め、上杉氏に対して同地の所領化を認める。家臣・真田昌幸らに殿(しんがり:退却する軍列の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)を務めさせ、北条氏直は徳川方の甲斐方面へ進軍する。その後、旧武田衆であった諏訪頼忠や「保科正直」(ほしなまさなお)らを北条氏の味方に付ける。
8月6日 北条氏直本隊が甲斐に入る。「若神子城」(わかみこじょう:山梨県北杜市)に本陣を置き、新府城の徳川軍と対峙する。
8月10日 徳川家康のいる新府城へ向けて、北条軍の別働隊が侵攻。その後、増援部隊として10,000人の兵を率いる「北条氏忠」(ほうじょううじただ:別称[佐野氏忠])も甲斐へ参戦する。
8月12日 新府城と甲斐に散らばっていた徳川軍の兵力に対抗するため、北条氏忠が自軍の兵を分散しようとするも、徳川方の鳥居元忠より攻撃を受けて敗北(黒駒の戦い)。同合戦後、甲斐の旧武田衆が徳川方に付く。
9月上旬 徳川方の依田信蕃が、北条方の真田昌幸を調略。徳川方へ寝返らせる。
9月中旬
館林城

館林城

徳川方の「佐竹義重」(さたけよししげ)らが上野に侵攻し、「館林城」(たてばやしじょう:群馬県館林市)を攻撃する。

9月下旬 徳川軍に反撃すべく、小田原から北条氏政が「沼津城」(静岡県沼津市:別称「観潮城」[かんちょうじょう])へ進軍。徳川軍に敗北する。
10月上旬 徳川方の真田昌幸と依田信蕃が、佐久郡の諸城や碓氷峠を占領。北条軍への補給線が断たれる。
10月28日 徳川家康に北条氏直が和睦を申し出て、徳川氏との講和が成立する。

上杉景勝の場合

上杉景勝

上杉景勝

本能寺の変が発生した翌日の1582年(天正10)年6月3日、「柴田勝家」(しばたかついえ)を総大将に据えた織田信長軍と上杉景勝軍が対立していた「魚津城の戦い」(うおづじょうのたたかい)に決着が付き、織田軍によって「魚津城」(富山県魚津市)が落城。

その後、柴田勝家は滝川一益や「森長可」(もりながよし)らと共に、「春日山城」(かすがやまじょう:新潟県上越市)へ向けて進軍していました。しかし、6月6日に本能寺の変の報せが柴田勝家のもとに届くと撤退しています。

この柴田勝家の撤退と織田信長の横死を知った上杉景勝は、6月中旬より北信濃の国衆達に対して調略を開始。信濃への本格的な侵攻に着手しますが、一方で北条氏もまた、信濃を掌握するために、南方より侵攻して来ていたのです。

天正壬午の乱における上杉景勝の動き 時系列一覧表
日付 具体的な動き
6月中旬
飯山城跡

飯山城跡

上杉景勝が北信濃の国衆へ調略を開始し、森長可の居城であった海津城や「長沼城」(長野市穂保)、「飯山城」(長野県飯山市)を落城する。その後、春日山城から出陣した上杉景勝は、川中島4郡を押さえて海津城へ入城した。

6月下旬 真田昌幸より臣従の申し出があり、上杉景勝はこれに応じて真田昌幸を自身の配下に置く。旧武田衆で織田信長にも仕えていた、「木曾義昌」(きそよしまさ)のいた深志城を攻撃。木曾義昌を城から追い出す。
7月9日 真田昌幸が北条方へ寝返る。
7月10日 徳川方に属する小笠原貞慶に、深志城を奪還される。
7月12日 碓氷峠を越えた北条軍により、信濃が侵攻される。
7月13日 海津城城主・春日信達が北条方へ内通していたことが露見し、春日信達を処刑する。
7月14日 北条氏直軍と上杉景勝が、川中島にある千曲川で対峙。春日信達の調略に失敗していた北条氏直は、上杉軍より要請された停戦に合意する。
7月29日 引き返した北条軍は、甲斐方面に向けて進軍する。
8月9日
新発田城跡

新発田城跡

北信濃の諸城を手中に収めた上杉景勝は、家臣「新発田重家」(しばたしげいえ)の反逆により起こった「新発田重家の乱」鎮圧のために出陣。「新発田城」(新潟県新発田市)を包囲するが、周辺が湿地帯で攻撃が困難であることから、退却を余儀なくされた。

真田昌幸の場合

真田昌幸

真田昌幸

天正壬午の乱において、最も特徴的な動きを取っていたと言えるのが真田昌幸です。もともとは武田氏に仕えていましたが、同氏の滅亡後は織田信長に属していました。

しかし、本能寺の変によって織田信長が亡くなると真田氏は、東に北条氏政・北条氏直父子、北に上杉景勝、南に徳川家康と、それぞれ数ヵ国の領土を領する有力戦国大名達によって取り囲まれる状況に。彼らに比べて小大名であった真田氏が、これまでの領土を保持しつつもその勢力を拡大していくために、真田昌幸は天正壬午の乱の最中に、主君を上杉氏から北条氏、そして徳川氏と躊躇なく変えていったのです。

真田昌幸が次々と主君を変えた理由に関係しているのが、西上野にあった「沼田城」(群馬県沼田市)です。沼田城は3つの川に囲まれている台地を利用して建造された堅城であっただけでなく、北信濃と越後、そして北関東を結ぶ場所にあり、軍事面などで重要拠点となる城でした。そのため、天正壬午の乱以前より、武田氏と北条氏、上杉氏が沼田城の争奪戦を繰り広げており、1580年(天正8年)には武田氏が沼田の地を支配下に置いたのです。しかし、武田氏の滅亡後は滝川一益が織田信長から佐久郡を与えられたことで、滝川一益の甥「滝川益重」(たきがわますしげ:通称「滝川義太夫」[たきがわぎだゆう])が入城しています。

本能寺の変のあとに沼田城は、真田昌幸が与力(よりき:有力武将や大名に仕える下級武士)として仕えていた滝川一益の判断より、真田昌幸に引き渡されることに。

その後、沼田城を何としてでも押さえておきたかった真田昌幸は、天正壬午の乱において勝ち馬に乗るがごとく、主君の鞍替えを行ったのです。

天正壬午の乱における真田昌幸の動き 時系列一覧表
日付 具体的な動き
6月12日
沼田城跡

沼田城跡

滝川一益の部下であった「藤田信吉」(ふじたのぶよし)が、滝川益重に沼田城の明け渡しを求めて離反し、沼田城を攻撃する。

6月13日 滝川一益の援軍に敗れた藤田信吉は、上杉氏を頼って越後に亡命する。軍勢を引き連れた真田昌幸が、滝川一益より引き渡された沼田城を受け取る。
6月末 真田昌幸が、上杉氏へ服従を申し出る。
7月9日 上野へ北条氏直が侵攻してきたことにより、服従先を北条氏へ変更する。上杉氏に属していた旧武田家臣の春日信達を調略し、上杉氏から寝返るように仕向ける。
7月13日 春日信達の謀反が上杉方に見つかったため、春日信達は処刑される。これ以降、北条軍が甲斐へ向けて進軍する。
9月上旬 徳川家康より領土を安堵する提案を受けた真田昌幸は、北条氏から離反する。
10月 真田昌幸は、旧武田家臣で徳川方に付いていた依田信蕃と共に碓井峠を占領。これにより、信濃侵攻中の北条軍が用いていた補給線が断たれた。

天正壬午の乱・その後

講和の条件とは

1582年(天正10年)10月29日、徳川氏と北条氏の間で講和が成立し、約5ヵ月に亘った天正壬午の乱がようやく終結。織田信長の次男・織田信雄と、同じく三男の「織田信孝」(おだのぶたか/のぶのり:別称「神戸信孝」[かんべのぶたか])らの仲介により、徳川氏と北条氏の和睦が実現しました。

この講和を結ぶ主な条件が、以下の2つです。

  1. 徳川家康の次女「督姫」(とくひめ)を北条氏直に妻として迎え入れさせること
  2. 信濃・甲斐は徳川家康、上野は北条氏の「切り取り次第」(自分で奪い取って所領にする)とし、互いに干渉しないこと

これにより徳川家康は、このとき領していた①三河・②遠江・③駿河の3ヵ国に、④信濃・⑤甲斐が加わり、計5ヵ国を支配する大大名となったのです。

織田信雄

督姫

督姫

和睦後も残されていた争いの種

上田城跡

上田城跡

徳川家康は北条氏と講和を結ぶ際、前述した条件②の中で「上野・沼田を北条氏へ譲渡すること」を提案しています。

しかし、もともと沼田は、真田昌幸が自力で獲得した真田氏の所領でした。真田昌幸は、天正壬午の乱で徳川氏に従属するようになったとはいっても形式上のことであったため、徳川家康による沼田の割譲に反発。その代替地を要求するも不明瞭であったことから、真田昌幸は徳川・北条連合と対立していた上杉景勝の傘下に入ることを決めたのです。

この出来事は、後年に信濃の「上田城」(長野県上田市)などを舞台にした徳川氏との「上田合戦」や、度重なる北条氏の侵攻を招くことになりましたが、真田昌幸はいずれも退けることに成功しています。

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第二次高天神城の戦い

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